上田市「信綱寺」真田信綱・昌輝の墓

上田市真田町にある信綱寺(しんこうじ)は、戦国武将 真田信綱(さなだのぶつな)、真田昌輝(まさてる)のお墓があるお寺です。

長谷寺から車で5分ぐらいのところにあり、今回、長谷寺を見てから信綱寺に訪れました。

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信綱寺とは?

信綱寺は当初、室町期、横尾城の東の梅ノ木に横尾氏の菩提寺として「好雪斉大柏寺(こうせつだいはくじ)」として建立されました。

やがて、上田原合戦(1548年)で横尾氏滅亡後、真田信綱公が寺を打越に移し、大光智照禅師を迎え「大柏山打越寺(だいはくざんおっこしじ)」と名付けられ、同寺所蔵の文禄3年(1594年)昌幸文書によれば、真田昌幸が兄・信綱の位牌所として改め「大柏山信綱寺」を建立したとされています。

ここを信綱の墓所としたのは、真田氏の屋敷があった由緒あるところであるためと考えられています。享保2年(1717年)に現在の高台に再建され、境内には信綱夫妻のお墓があります。

真田信綱夫妻・昌輝の墓に行くまで

今回、車は、信綱寺の山門横の駐車場に停めました。そのため、山門前からの説明になります。

信綱寺の山門は、手の込んだ作りの建物になっています。大工さんの腕が凄かったことが感じられる山門です。

ここをくぐって本堂に向かいます。

本堂までには、十数段の階段を上っていきます。山門横に車を停めた場合は、本堂まですぐに行くことができます。

階段を上がったところ、ここ右手にあの有名な墓前の桜があります。
(すみません、撮り忘れてしまいましたので、次回行ったときに撮影してアップします)

墓前の桜は、長篠の戦いで戦死した真田信綱の首級、鎧胴が葬られた場所になります。
信綱の首級を包んだ血染めの陣羽織と鎧胴は、お寺が大事に保管しており、事前予約することで見ることができるそうです。今回は事前予約していなかったため、見ることはできておりません。

山門の入り口左右には、悪星退散、善星皆来と書かれており、厄除けがされています。

墓前の桜の逆側には、このようなものが書かれており、これは?成仏させるものでしょうか?ね。

中に入ると、そこはしっかり手入れがされた中庭になっています。

本堂は、とても立派な建物で、屋根の上には、真田家の家紋である六文銭が飾られています。

右後ろには、鐘楼があり、こちらにも真田家の家紋、六文銭が入っています。

本堂は、この日は鍵が閉められ、開けることができませんでした。
ジーッと覗いて、お参りをする形になりました。

目当ての真田信綱・昌輝の墓は、信綱寺の右の山道を少し進んだ高台にあります。


この日は凄く暑く、ここにはお墓までどのくらいあるかが書かれていなかったので、行こうか少し迷いました。車に飲み物を置いてきてしまい、熱中症になっては困るなとも考えていましたが、ここまで来たら行くか!で行ってみたところ、40メートル上ったところにお墓がありました。

信綱夫妻・昌輝のお墓に到着しました。お墓の石段前には、真田信綱の墓の案内板がありました。

以下、案内板の内容となります。

真田信綱は天文6年(1537年)、真田幸隆の長男として生まれ、父病死後38歳で家の跡取りとなるが、翌天正3年(1575年)、武田勝頼に従い織田信長と長篠で戦い、弟昌輝と共に戦死した。
信綱の首級は、家臣 白川勘解由兄弟の手により陣羽織に包まれ鎧と共に大柏山打越寺まで運ばれ、墓前の桜の下に葬られた。その後打越寺は、信綱公菩提所として信綱寺と改称された。
享保2年(1717年)、寺の移築に伴い、墓所が裏山の現在の場所に移され、夫人と共に懇に弔われている。近年、夫妻の墓のとなりに昌輝の新しい墓が建立された。

中央が真田信綱、左が真田信綱夫人、右が真田昌輝のお墓になります。

以上が信綱寺の真田信綱夫妻・昌輝の墓に行くまでになります。
真田幸隆・真田昌幸の墓がある長谷寺と合わせて行かれると良いかと思います。

長谷寺の記事はこちら

信綱寺のアクセス

住所:長野県上田市真田町長8100
電話番号:0268-72-2043
アクセス:



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